2009年12月30日水曜日

岩崎久弥は聞き上手

岩崎久弥はとても聞き上手であったと言います。人の話を相槌を打って良く聞いてくれて、相手が信頼出来る人だと判断すると、話の方向性のみ確認をして、後はその人に任せたと言います。

岩崎久弥は、人を信頼する事に長け、人に信頼もされていた人物で、人の上に立つ人間としてはとても大切な要素を持ち合わせていた人だった様です。

岩崎弥之助が、岩崎弥太郎の遺言により久弥を三菱社の総帥にしますが、その時期はとても速く、久弥が弱冠28歳と言う事でした。久弥の人柄もそうですが、岩崎弥太郎が生存していた時から、尽力を尽してくれた幹部達がいてくれたからこその判断でもあった様です。

そんな久弥が50歳を迎えた頃、当時36歳であった岩崎弥之助の息子である小弥太に三菱社の社長の座を譲ったのは余りにも唐突な出来事であった様です。三菱社の事業は順調に進んでおり、益々の活躍が期待されていたと言います。それも社長である久弥、副社長である小弥太のコンビネーションがあってこそだったと言われています。ですから、まだ50歳の若さで社長を交代する必要性は無かったのではないでしょうか。

しかし、ここが久弥の凄い所だった様です。こう言う好調の時だからこそ後継者を譲ると言う事が人を信頼している証だったのでしょう。小弥太に社長を譲ってからは、小弥太を信頼していたので、経営に関して口をはさむ事は決してしなかったそうです。

久弥は引退後、小岩井農場の事業を楽しんで行う等して、楽しく社会貢献しながら余生を過ごしたと言います。

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2009年12月29日火曜日

キリンビールの設立

岩崎弥太郎の長男である岩崎久弥が、三菱の第3代総帥になってからは、事業を統括していきます。事業の中心は鉱業や造船と言った物でしたが、久弥が個人的に興味を持っていたのは「紙」と「ビール」だったそうです。

横浜では、明治初期の頃から「スプリング・ヴァレー・ブルワリー社」でビールを作っていました。その会社を岩崎弥之助、岩崎弥太郎と敵対していた渋沢栄一等の財界人を始めとして、横浜に住んでいた外国人達が出資する形で買収をしました。買収後名前を「ジャパン・ブルワリー社」と言う名前に変更しています。

この頃、ビールと言うアルコールは日本人にとっては余り馴染みが無く、普及もさほどしていなかったと言います。しかし明治屋と言う総合代理店が「キリン」のラベルを使って一般の人向けに発売をした事がキリンビールの初と言う事になります。

明治40年に、輸入販売業者の総合代理店だった明治屋と、岩崎家、更に日本郵船が合同になって「麒麟麦酒株式会社」を設立する事になりました。

当初は神奈川県鶴見に工場を作りましたが、その後は仙台、広島等、日本で何カ所か工場を作り、朝鮮や満州等海外にも作って事業を展開していったと言います。

その後、キリンビールは日本でも1位2位を争うビール会社に成長し、他のビール会社とのシェア争いをしていく事になります。岩崎久弥はキリンビールの買収には関わりましたが、経営と言う部分に関与する事は無かった様です。

2009年12月28日月曜日

岩崎久弥オフィス街の建設

岩崎弥太郎の長男として産まれた岩崎久弥はアメリカへ留学していました。その後、三菱社の副社長になるのですが、その前の年、岩崎弥太郎の弟で三菱社の第2代総帥である岩崎弥之助は、今の東京丸の内周辺に10万坪と言う広大な土地を購入したと言われています。

この土地は政府の陸軍省から購入したのですが、政府が財源に苦しんでいた為、政府を救ってくれるように懇願して、土地を払下げした物だったそうです。

政府が提示していた金額は余りにも高額だった為に、弥之助も相当悩んだらしいですが、国家に尽くす事が三菱の意思であると言う事から、高値でも土地を購入する事を決意したと言います。その土地の価格は、当時の東京市予算の大体3倍はあったと言いますから、かなりの高値である事は間違いありません。

当時、まだ東京駅と言う物は無く、中央線がお茶の水までしか通っていなかったり、路面電車が日比谷?大手町間で走っていたりと言う時代だったので、丸の内は交通の便はかなり不便だった事が伺えます。

しかし、岩崎久弥が第3総帥になると丸の内オフィス街を建設する事になり、東京駅が開通する事になり、丸の内も交通の便が良いと言う場所になっていきます。

丸の内の土地を購入した背景には、その当時三菱の管事をしていた荘田平五郎が、ロンドンのビジネス街をイメージして、そう言った物を東京にも作りたいと言う構想があっての事だったと言います。

今の丸の内オフィス街があるのは、岩崎弥之助・岩崎久弥のお陰と言う事になり、結果的に岩崎弥太郎がいなければ成しえなかった事だとも言えます。

2009年12月27日日曜日

岩崎弥之助は多趣味

岩崎弥太郎は子供達や、社員達の育成には力を注いだと言われていますが、弟である弥之助も同じ様に子供達の育成に力を注いだと言われています。

弥之助は学寮を建てました。その学寮には優秀な学生が入寮すると共に、質素剛健を目的とした規則正しい、規律がしっかりしている生活が送れるようになっていました。岩崎弥之助の長男や次男も例外ではなく、中学に入るとその寮に入れられ、上下関係がしっかりした中で色んな事を学んだと言います。また、休みの日には自宅に戻ってきていたそうですが、色んな遊びやスポーツを忙しく楽しんでいたと言います。

岩崎弥太郎の弟である岩崎弥之助は、とても多趣味だったと言われています。それほど好奇心が旺盛だったと言う事なのですが、古典籍収集、建築、園芸、東洋文化、美術品等、本当に数え切れない程興味がある物があり、その収集品に関してだけでもかなりの数だったと言います。その収集品を収納した美術館までも作られた程です。現在は世田谷にその場所を移し、岩崎弥之助の長男である小弥太の収集品等も一緒に展示されていると言います。また、現在では国宝品、重要文化財品等数多くの展示物を収蔵しています。

また、漢学の収集についてはかなり重きを置いていたみたいで、幼少の頃は漢学を学んでいたとは言え、そこまで興味が有ったと言う訳では無かった様です。しかし、恩師である重野の為に、私財を投入してまで漢籍収集をするようになったと言います。その数は何万冊とも言われています。

2009年12月26日土曜日

岩崎家の子孫達

岩崎弥太郎は、妻である喜勢夫人との間に、1男2女を設けました。長女、春路は内閣総理大臣にまでなった加藤高明と言う人の妻になりました。他に、第3代三菱の総帥となった久弥、二女である磯路がいます。また岩崎弥太郎は養子も1人迎え入れ、名を昌作と言いました。昌作は実業化であった郷誠之助の4男であったと言います。岩崎家の養子が決まると名前を豊弥に変えました。この豊弥は後に岩崎家から分家する事になります。

ちなみにですが、豊弥の姉である幸子が嫁いだ先は川崎財閥であった為、岩崎家は郷家を介す事で、川崎財閥と姻戚関係を結ぶ事になりました。

更にですが、岩崎家は養子の豊弥を通じて皇室と繋がる事になるのですが、これは、豊弥の長女が昭和天皇の侍従長を長い間努めていた事に始まります。そこから入江相政と言うエッセイストと結婚をしました。その旦那である入江の姉は高木正得子爵と言う所に嫁いでいたのですが、娘(二女)が三笠宮崇仁親王と結婚したのです。少し複雑で血縁は全然ないのですが、岩崎家、入江家、高木家と言う様に介していき皇室と繋がる事になりました。とは言ってもかなり遠い関係と言う事になります。

岩崎弥太郎の二女である、磯路は木内重四郎と言う京都府知事をした事がある人と結婚をし、子供を5人設けています。

磯路の次男は木内信胤と言う経済評論家になりました。磯路の二女は渋沢栄一の孫と結婚しました。渋沢栄一の孫は大蔵大臣や、第一銀行の副頭取まで担った人です。

この他にも、岩崎弥太郎の子孫達は、物凄い人物達との交流を深め、姻戚関係になって行ったと言いますから、物凄い家系図になっていると思います。

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2009年12月25日金曜日

岩崎弥之助について

岩崎弥之助は岩崎弥太郎の弟で、三菱財閥の2代目総帥となった人物です。元々は兄の片腕として九十九商会時代から働いていましたが、明治18年に兄である岩崎弥太郎が死亡した事を期に、兄の意思を次いで三菱の2代目として就任しました。

岩崎弥太郎が総帥の時は、一時期経営の危機にまで陥ってしまった事がありましたが、弥之助に総帥が変わってからは、経営が多角化していきました。そこから三菱は急速に事業を発展させていく事になりました。

今の人達が知る所で、岩崎弥之助が手掛けた所と言うと東京の丸の内周辺であったと言います。元々岩崎家は高知県出身の地下浪人の出でありましたが、一族で東京に移り住み、弥太郎、弥之助等の活躍により財力を付けていきました。

また、明治23年頃には東北新幹線が今の盛岡まで開通しました。岩手と言うと小岩井農場を知っている人も多いでしょう。バターや牛乳、アイスなど多くの乳製品も有名です。その小岩井農場を開設したのが、岩崎弥之助を始めとした、当時の日本鉄道会社副社長である小野義真、鉄道庁長官であった井上勝だったそうです。小岩井農場の開設は経営としても大成功を収めた様で、多角経営の一貫として大いに役立った様です。

明治32年には、3人の経営から岩崎家独自の所有物となった様です。弥之助はそれだけに留まらず、弥太郎の長男である久弥を三菱の3代目総帥としたら、自信は日本銀行の第4代総帥として活躍したそうです。

2009年12月24日木曜日

岩崎家は華族ではなかった

三菱グループの創始者である岩崎弥太郎、そしてその弟であり、三菱グループの2代目総帥である岩崎弥之助等がいた岩崎家は、経済界きっての名門家系として知られています。
三菱グループの歴代総帥は岩崎家の家系で引き継がれていて、初代総帥は岩崎弥太郎、2代目総帥は弟の岩崎弥之助、3代目総帥は弥太郎の長男である岩崎久弥、4代目総帥は岩崎弥之助の長男である岩崎小弥太と、身内で総帥を歴代勤めている事になります。

また、家系からは2人の首相が誕生している事も挙げられます。弥太郎の長女の旦那である加藤高明、弥太郎の4女の旦那である幣原喜重郎の2人です。

更に、弥太郎の孫である君子はエッセイストだった入江相政の妻となりますし、エリザベスサンダースホームの創設者になった物も弥太郎の孫でした。またひ孫には大学の名誉教授を務める物、その妻になる物、小岩井農場の親会社であった東山農事の社長を務めた物等、そうそうたる経歴を持つ物ばかりが家系にいる事になります。

岩崎家の家紋は、昔から変わらず三階菱だと言う事です。

もともと、岩崎弥太郎が生きていた頃には、岩崎家は華族としては認められていなかったそうですが、弥太郎が死んだ後にその功績が称えられ、長男の久弥が男爵としての地位を授けられて、華族となった様です。

一介の地下浪人であった岩崎家が、華族にまで成り上がるとは、弥太郎が生まれた時には思ってもいなかった事でしょう。それほど弥太郎が残した功績は凄い事なのです。

2009年12月23日水曜日

西南戦争で莫大な利益を得る

明治10年に行われた西南戦争において、三菱は軍事輸送を担当した事から、莫大な利益を挙げたのではないかと言われていました。本当に莫大な費用だったかどうかは別として、当時、1年間にかかる東京都の予算ははるかに超えていた利益を得た事は確かだったようです。

岩崎弥太郎は、この戦争で得た利益を基に産業としての資本を形成していく事になります。また岩崎弥太郎個人の為に使った物としては、東京都内に屋敷をいくつか購入したと言う事です。

その屋敷とは、今で言う上野不忍池の近くに位置している所だった様です。新たに建てた訳では無く、高田藩榊原家の江戸屋敷として使用されていた所を購入しました。坪数は8500坪程、かなり大きい屋敷であった事は想像出来ると思います。この屋敷は徳川家康が腹心であった榊原康政に与えた物と言われています。

また、そのお屋敷の周りの土地も、岩崎弥太郎は買い上げたと言う事で、その母屋を立て直したと言います。それも倍近くにしたと言いますから、かなり大きい屋敷になったのでしょう。

岩崎弥太郎は、共同運輸と繰り広げていたビジネス戦争中にガンが発病していまい、倒れる事になります。東京の買い上げた屋敷で50年と言う、波乱万丈で短い生涯を終える事になりました。ただ、死ぬ直前まで指揮を執っていたと言う事ですから、根っからのビジネスマンになっていたのでしょう。

極限の貧乏から巨万の富を得るまで、自分の才覚でのし上がっていった岩崎弥太郎は、今でも根強く語り継がれていますし、これからも語り継がれていく事でしょう。

2009年12月21日月曜日

岩崎弥太郎が海運と出会った理由

1865年、西郷隆盛の支持を得て、亀山社中を結成したのは坂本龍馬でした。亀山社中の役割と言ったら、航路を使って物資を輸送する事、その他には航海訓練を行う事と言った役割でした。

この頃、土佐藩の中でかなりの実力を付けていた後藤象二郎ですが、開成館と言う組織を結成して、土佐の商品を売ると言う商いをしながら、富国強兵をしようと志していましたが、そうは上手くはいきませんでした。その事から1867年に土佐商会の責任者として岩崎弥太郎を抜擢したという事です。岩崎弥太郎はここから経済への道を歩むことになります。

その頃、後藤象二郎と坂本龍馬は長崎で会談をし、大政奉還への道を進めようとします。同年坂本龍馬に対する脱藩の罪が許されると、亀山社中から海援隊と名前を改め、土佐藩の為に色々と尽力を尽くす事になりました。この時、海援隊の経理を担当したのが岩崎弥太郎だった様です。

岩崎弥太郎は交渉術にも長けていた様で、海援隊が「いろは丸」と言う船で処女航海している最中、徳川家紀州藩の船と衝突して沈没してしまいました。相手が相手だけに賠償請求もなかなか上手くいかなかった所、岩崎弥太郎が上手い、紀州藩に対して賠償をしてもらえる様になったと言われています。

その後大政奉還も出来たのですが、同年、坂本龍馬が暗殺された事により、海援隊は勢力を失っていく事となります。その後海援隊は分裂しましたが、それを岩崎弥太郎はつくも商会や郵便汽船三菱会社等、三菱グループに分散させて発展させていく事になりました。坂本龍馬との出会い、これが岩崎弥太郎と海運が出会ったきっかけであった様です。

2009年12月20日日曜日

岩崎弥太郎の三菱独占状態

台湾出兵をした際に軍事輸送を三菱が手助けした事が、政府への絶大なる信頼に変わった三菱に対して、第一命令書が発令され、海運助成策を独占、その要請に応える様な形で、三菱は全社を挙げて軍事輸送を行ったと言われています。

この為、三菱と政府の間には信頼関係が生まれ、日本と言う国の中に三菱の地位を確立したと言います。ここから日本経済の発展においても大きな力を発揮していく事になります。まさに岩崎弥太郎の三菱独占状態と言う状態になってきたと言う事です。

また三菱への助成を推進していた人物には、大隈重信、大久保利通がいましたが、その大久保利通が明治11年、暗殺されてしまう事になります。この事が出る杭は打たれると言う事を暗示していたのかもしれません。

この頃、自由民権運動が強まってきている所で、伊藤博文、大隈重信の意見が対立を深めていました。大隈重信の意見は福沢諭吉の考えと当時似ていた物で、国会開設を早める事、英国と同じ様な議院内閣制を実施する事を主張していました。一方伊藤博文は全身的な国会の開設、君主権限が強い国家にする事を主張していました。

明治14年、大隈重信の意見が通る様な出来事が起こり、政府が批判にさらされる事態になりましたが、逆に大隈重信は罷免されてしまいます。

この事を境にして、自由民権運動はますます勢いを付ける事になり、大隈重信は立憲改進党を結成して政党政治が出来る様に改革を進めていったと言います。これは伊藤博文等にとっては脅威な事でした。なぜなら大隈重信には、福沢諭吉の知恵が付いていましたし、なにより岩崎弥太郎が持っている財力がありましたから。

2009年12月19日土曜日

岩崎弥太郎に影響を与えた人物

岩崎弥太郎に影響を与えた人物はたくさんいますが、その中の1人に「ジョン万次郎」が挙げられます。

そのジョン万次郎ですが、鎖国も開け、近代日本が開かれたといる時代に、日本と欧米との懸け橋となって多大なる業績を残した人物です。ジョン万次郎と言う人物がいる事は知っていても、どんな功績を残してきた人なのか知らない人も多いのではないでしょうか。ジョン万次郎の功績については、日本より逆にアメリカの方が評価が高い様です。

その証拠として、第30代アメリカ合衆国の大統領である「クーリッジ」は「ジョン万次郎がアメリカから日本に帰国した事、これはアメリカがアメリカ大使として日本に送りだしたのと同じ事だ」と言うように語っていたという事もありますし、アメリカが建国されて200年の記念の時に「海外からの米国訪問者展」と言うイベントが開かれたそうですが、その中にジョン万次郎が入っていたそうです。たった29人の中に入っているとは本当に評価が高かった事を考えさせられます。

かの有名な坂本龍馬も、ジョン万次郎の体験してきた事を聞き、外国に対して興味を持ち開眼していったと言われています。それを基にアメリカの生活事情、民主主義などの知識を用い、近代的な日本国を作ろうと目指していったと言われています。

また、ジョン万次郎の影響は坂本龍馬だけでは留まらず、板垣退助や岩崎弥太郎にまで与えたそうで、国際化時代を迎えうつ為に必要な人材だったのだと思います。

今、ジョン万次郎の銅像は足摺岬に立っています。その姿はアメリカのフェアヘーブンを見つめている様な思いをはせた風貌で立っています。

2009年12月18日金曜日

岩崎弥太郎の思い

幕末の時代、土佐に生まれた一人のわんぱく坊主が、海を見ながら広い世界に思いをはせていた幼少時代。そんなわんぱく坊主の岩崎弥太郎が35歳になった時、つくも商会を大阪に経営を任される形で創設させ、たった5年と言う短い年月で「東洋の海運王」と呼ばれるまでになりました。その後、50歳までの10年間まっすぐに前を見続けた生涯を送ったのが岩崎弥太郎です。

岩崎弥太郎は、本当に立ち止まると言う事を知らなかった人物です。業績をあげ、色んな人からの妨害も受けながらも一歩も譲る事無く、自分の信念を貫き通した生涯であったと言えます。

東京の自宅にて病に倒れ、死を目の当たりにした弥太郎は、今までに出会ってきた多くの人達の事をきっと思い出していたのではないかと思います。師と仰いだ吉田東洋を始め、後藤象二郎、坂本龍馬、福沢諭吉、渋沢栄一、ジョン万次郎、等そうそうたる面々です。本当に自分の意思を貫き、波乱万丈に生き、そしてとても中身の濃い人生だったのではないでしょうか。

明治18年に50歳と言う若さで亡くなりましたが、その直前まで岩崎弥太郎の意識ははっきりしていたと言います。病気の為に激痛で苦しみながら三菱グループの為、後継者の事の遺言を残したそうです。

志半ばにして病に倒れた弥太郎の代わりに、その遺言どおり、弟である弥之助が三菱の後を引き継ぎ、その更に後を息子である久弥、小弥太等が引き継いでいきました。それが今の三菱グループの原点となっています。

2009年12月17日木曜日

岩崎弥太郎の生家

三菱社の創業者である岩崎弥太郎は、高知県安芸市(当時は井ノ口村)で生まれ、幼少時代を送っていました。今は妙見山の所にある山麓へ続いている道すがら、生家が残っています。車1台がやっと通れる道の所にある、とても穏やかな雰囲気の所です。そんな所で岩崎弥太郎は生まれました。

岩崎家が安芸氏に家を構えたのは、弥太郎の曽祖父であった岩崎弥次右衛門が1795年に手に入れたものだったと言います。今現存している生家は、1795年当時の姿そのままだと言う事で、残っているのは凄い事だと思います。大体30坪程の土地に、平屋でかやぶきと言った佇まい、部屋も4畳半の部屋が3つ、8畳ほどの部屋が1つと言った感じで、決して広いとは言えない家でした。

また、土倉の所にある鬼がわらには岩崎家の家紋が彫られていて、それは三階菱と言う形でした。三階菱は菱形が鏡餅の様に3重に積み重なっている様な感じになっています。これが三菱マークの原型になっています。

岩崎弥太郎と言う人物を知る上で、生家を知っておくと言う事はとても大切な事だと思います。何しろ今や財閥とまでなっている三菱グループの創始者である、岩崎弥太郎の原点ですから。それと同時に、当時の暮らしぶりが分かる様なとても貴重な財産でもあります。

岩崎弥太郎の生家は、今の時代に見たとしても、周りがのどかだっていう事、家の雰囲気からして当時にタイムスリップしてしまう、とても穏やかな感覚になると思います。

2009年12月16日水曜日

岩崎弥太郎が創立した三菱商業学校

明治11年には東京神田に三菱商業学校が設立されました。ここの教官人は殆ど福沢諭吉が設立した慶応義塾の門下生達で、理想に燃えていたと言います。

三菱商業学校では、予備科3年、本科2年と言う合計5年の学校で、教えている内容は英語、算術、簿記、漢学、作文、経済学(英語)、数学、歴史、地理、と言う様に普通の授業にプラスして商業や経営に必要な学問を教えていました。更に希望者には1年間のインターンシップが経験できたと言います。

また、三菱商業学校での生徒数は多い時で100名超える位で、今で言うビジネススクールと言った所だった様です。創立者の岩崎弥太郎の長男、弥太郎はこの時福沢諭吉が開設していた慶応義塾で学んでいましたが、岩崎弥太郎の考えで三菱商業学校の第一期生として入学しました。

慶応義塾と三菱商業高校の資金の差は歴然としていた様で、慶応義塾は資金繰りに困って政府に調達してくれるように掛け合っていたのに対して、三菱商業高校は政府からの補助(と言っても三菱にあった助成策によるもの)が有ったので、かなり三菱商業高校にお金をかけていたと言います。

三菱商業学校は優秀な学生を集め、教育陣も優秀な人材を集め、前途洋々の様な感じであったのですが、いつの頃からか自由民権思想普及の場となってしまい、ビジネス戦争に巻き込まれ三菱自体の資金繰りが苦しくなってきた事から、創立してたった6年で廃校と言う所にまで至ってしまったそうです。

岩崎弥太郎にとっては大きな挫折と言って良いでしょう。

2009年12月15日火曜日

岩崎弥太郎が創立した三菱商船学校

明治維新後、日本の海運業界は国際的観点から見ても遅れていたそうです。その為、岩崎弥太郎は明治8年、三菱商船学校を東京の隅田川河口に設立しました。

船舶運航技術を習得し、船員を育成する事を目的としていましたが、その一方で、民族資本の海運会社を育てる事も政府からの命令であったと言います。そう言った命令が政府から三菱に対して第一命令書と言う形で発せられました。その代わりに本当に色々な助成が行われていたそうです。

三菱商船学校の第1期生は44名程でした。三菱商船学校の校長を務めていた中村六三郎氏は元々幕府が行っていた海軍伝習所を卒業して今の東京大学で教えていた所、三菱商船学校の校長として抜擢された様です。また、三菱商船学校の教師陣には外国人もいたと言います。これは船員を養成すると言う義務から来ている物で、その時に三菱では外交人船員が数多く採用されていたそうです。また、当時運行されていた蒸気船は、殆ど外国人の手によって運行されていたと言います。

三菱商船学校はかなり近代的な学校として、意義があったようです。こう言った学校が岩崎弥太郎が若い時にあったならば、きっと入って授業を聞きたかったに違いありません。
また、岩崎弥太郎は三菱商船学校と言う海運業に関する学校だけでなく、商業に関する学校、三菱商業学校も設立しました。

この様に、事業に関する人材を育てる為の学校を惜しげもなく作り、欲しい人材を自分達の手で養成していくと言う手法を取っていたのです。

2009年12月14日月曜日

岩崎弥太郎と福沢諭吉

誰でも知っている1万円札の顔、福沢諭吉が生まれたのは天保5年で、奇しくも岩崎弥太郎が生まれた次の日だったそうです。福沢諭吉は学問に長けていて、蘭学を学び、英語も学びました。その功績もあり、幕府の欧米使節として3度随行したと言います。また、西洋の制度だったり、理念だったりと言う事について本を書く事で紹介していったと言います。

その福沢諭吉が書いた著書『西洋事情』は、出版されるや否やベストセラーになった様ですが、その本への魅力に岩崎弥太郎は魅入られて福沢諭吉のファンになったのではないかと思います。

福沢諭吉は東京三田に慶応義塾を開設しました。そこで、先生として教鞭を取っていました。その頃岩崎弥太郎は大阪にて海運業を立ち上げ、つくも商会から三菱商会へと改名をし、慶応7年に東京へ本社を移転しました。

当時、海運業の大手は日本国郵便汽船会社と言う所で、その態度は余りにも大きかったそうです。しかし、事業の成功はお客様へのサービス次第と思っていた岩崎弥太郎は、東京に進出した際、店の正面におかめの顔をした看板を掲げたと言います。おかめというと、愛くるしい程の笑顔で見る物の心を和ませます。そのおかめの顔と同じ顔で接客をしろと社員に指導していたそうです。

そう言った状況を視察した福沢諭吉は、岩崎弥太郎は商売の本質を心得ていると言う事で感銘を受け、慶応義塾の塾生に語っていたそうです。

福沢諭吉と岩崎弥太郎はお互いに一目を置くと言う関係があったそうで、三菱の経営を近代化していく大きな役割を果たしていく事になっていったそうです。

2009年12月12日土曜日

三菱商会の誕生

明治4年の頃、廃藩置県が行われ、岩崎弥太郎はこの時に土佐藩小参事と言う立場を失う事になりました。時を同じくして後藤象二郎、板垣退助に説得される様な形でつくも商会の経営を任される事になりました。これが岩崎弥太郎が実業家として始動する第一歩になりました。つくも商会の経営を行うと決めたあたりから、弥太郎は士官を目指す事を諦め、起業家として生きる決意を固めたと言います。

三菱商会が生まれた原点は、岩崎弥太郎が譲り受けた「つくも商会」になります。

岩崎弥太郎はとても野心家で、気性の激しい性格だったと言います。幹部達も弥太郎の顔色を伺いながら仕事をしていたそうで、それを見ていた弥太郎はとてもまどろっこしくなり、独裁体制を築き上げたそうです。弥太郎の独裁体制に入った時に、社名も「三菱商会」と改め野望のごとく突き進む事になりました。

この頃、弥太郎の弟である弥之助が留学先から帰国した事で、三菱商会の体制は万全を迎えます。明治7年、三菱商会は東京日本橋に本店を移し、名前も三菱商会から三菱蒸気船会社として新たに指導しました。この時に弥太郎の呼び方も当時の「旦那」と言う呼び方から「社長」と言う呼び方に変わったそうです。

岩崎弥太郎の思いとしては、この事業が成功するか否かは、お客様に対するサービス次第なのでは?と言う思いが有ったと言います。しかし、社員はほとんど下級でも武士出身の為に人に対して頭を下げると言う事が出来ないでいました。そんな武士のプライドを捨てられない社員達に、笑顔で頭を下げる様に矯正する事がとても大変だったらしいです。

2009年12月11日金曜日

岩崎家の母の偉大さ

岩崎弥太郎の妻になった喜勢は、結婚当初に送っていた極貧・どん底の生活を、裕福になっても決して忘れる事は無かったといいます。その為、どんな時でも姑である美和を立て、一歩下がる様な形で弥太郎を支え続けたと言います。

岩崎弥太郎の死後、弟である岩崎彌之助が弥太郎の遺言どおり三菱の社長となるのですが、その岩崎彌之助にとっても母美和は特別な存在であったといいます。その教えもあって、弥太郎の長男である久弥を三菱の総帥に上げる様に指導し、育成し、その一方で三菱一門をまとめ上げていたと言います。そして弥太郎の息子久弥が28歳になったとき、三菱商会の社長を譲ったそうです。

岩崎家の家系は凄い物にその後なっていった様で、先ず弥太郎の長女である春路が嫁いだのは加藤高明と言う男で、この男は三菱の社員だったと言います。その加藤高明は三菱グループから官界に行き、首相にまでなりました。また弥太郎の四女である雅子が嫁いだのは外交官であった幣原喜重郎と言う男で、この男もまた首相になったと言います。

岩崎家の家系から首相が2人も出ると言うのも、かなり凄い話ではないかと思います。しかしその時には母美和は既に亡くなっていたそうです。

美和は明治7年、東京に住まいを移しますが、その都度都度で色んな事を書き綴っていったと言います。弥太郎の死の直前の事、事業の事、家の事等々、あらゆる事だった様です。それは美和が死ぬ直前まで続いていたそうです。

美和は岩崎家にとっては、絶大なる威厳を持っている存在であり、美和が書いた手記は今でも大切に保管されているそうです。

2009年12月10日木曜日

岩崎弥太郎のお母さん

明治9年頃、岩崎弥太郎の母岩崎美和は、長女である春治の所(大阪)へ暫く身を寄せていた事があると言います。その頃は毎日の様に弥太郎から母へ手紙を送っていたそうです。内容はとにかく「無事で」「早く帰ってきて」と言う様な、母親に対する愛情が見える内容だった様です。

明治9年頃と言うと、岩崎弥太郎にとっては「郵便汽船三菱会社」を作り(日本国郵便汽船会社を吸収すると言う形で作りました。)、政府の助成策を享受する等している頃で、勢いが止まらなかった時期になります。三菱商会の仕事で昼間は忙しく奮闘し、夜は人脈作りの為なのか、毎晩どんちゃん騒ぎをしていた様だったのに、マメに母親に手紙を書いていた事は本当にビックリです。

岩崎弥太郎の母、美和は元々町医者の娘として産まれました。それが土佐の井ノ口村の地下浪人であった岩崎彌次郎の所に嫁ぐ事になる訳ですが、それは貧しい暮らしだった様です。それでも誇りを失わずに常に凛とした態度でいたそうです。弥太郎を始めとした子供たちにとって、美和はとても大きな影響力を持っていて、それは生涯変わらなかったとか。

岩崎弥太郎が海運事業に乗り出し、忙しい毎日を送っていた頃、母は弥太郎を厳しく諌めたり、励ましてきたりして常に心に安定をもたらす存在としていた様です。

また、美和は岩崎家の家訓を残していた様ですが、その中に「貧しい時代の頃を忘れるな」と言う様な内容の家訓がありました。これは弥太郎に対する戒めの言葉だったかもしれません。この言葉を思い出すたびに弥太郎は身が引き締まる思いをしたといいます。

2009年12月9日水曜日

岩崎家と郷士の株

岩崎弥太郎は、土佐国の地下浪人と言う身分の家に長男として、高知県井ノ口村(現在の安芸市)に生まれました。

岩崎家は元々土佐にいたのではないと言われています。甲斐源氏武田にある岩崎一族の末裔なのではないかとも言われていますが、その真偽は定かではありません。そんな岩崎家が土佐に移り住んだ時期は分かりませんが、土佐に移り住んだ際、安芸氏、長宗我部氏と言う様に色々な人の下に仕えていた様ですが、岩崎弥太郎が生まれる頃には「地下浪人」と言う身分に下がっていた様です。

地下浪人と言う身分が有る事さえ知らない人もいるでしょうが、地下浪人とは郷士の株を売った人の事を指しています。40年以上も郷士職に付いていた人に名付けられた呼び名の様で、郷士の株を売ってしまった人、最も最下位の武士と言う身分であると言えます。

そもそも「郷士」は半分農民、半分武士と言う身分になります。また「郷士の株」と言うのは、財政悪化した藩が臨時収入を得る為に、豪農や町人に対して名字帯刀を許してしまうと言う権利を与えると言う事です。

岩崎家は飢饉と一揆に苦しみ、曾祖父である岩崎弥次右門が郷士の株を売ったと言う事で、地下浪人と言う一番下の身分になってしまったと言う事です。こう言った理由から岩崎弥太郎は生まれた時から、一番下の身分で極貧と言う状況で暮らしていたという事です。

あの坂本龍馬の家も豪商から郷士になったと言う家柄に育ったと言われています。

2009年12月8日火曜日

岩崎弥太郎の人柄

岩崎弥太郎は三菱グループの創立者と言う事もあって、多くの方は財閥の出で裕福だったのではと思う人も多いでしょう。しかし、岩崎弥太郎は恵まれた環境の下で幼少時代を送った訳ではありませんでした。

岩崎家の身分は「地下浪人」と言う身分でした。「地下浪人」とは地下に投獄されていると言う意味ではなく、郷士の株を売って居ついてしまう浪人の事を指していたそうで、かなり身分は低かったそうです。ですから、岩崎弥太郎の幼少時代と言うのは、本当に極貧生活で苦しかったと言っても良いと思います。

しかし、岩崎弥太郎は才覚を発揮し、起業家として成功までした人です。何故ここまで出世する事が出来たのでしょうか。岩崎弥太郎は秀才とまで言われ、当時の土佐藩主に褒められた経緯もあります。その才能を生かして勉学に勤しんだと言います。その後江戸に遊学に出向く事になるのですが、その前に地元の神社に参拝をして、そこの扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と書き、幼いながらにもその心に大志を抱いた様です。それが多いなる野望に繋がったのでしょう。

今でも岩崎弥太郎の生家が残されていますが、その庭石は日本列島を模って並べているのではないかと言われていて、幼少の頃から日本全土を思って野望を抱いていたのかもしれません。その極貧時代を送った経験が、将来「東洋の海上王」と呼ばれるようになるまで上り詰める引き金になったのかもしれません。

2009年12月7日月曜日

岩崎弥太郎とボーナス

日本で初めてボーナスと思われる事があったのは江戸時代ではないかと言われています。江戸時代にお屋敷に奉公に来ていた人が、実家に帰る事を許されたのはお盆と年末だけだったようです。この時に奉公先の人が少しお小遣いを渡したり、着物を新しくしてあげたりしていた様です。これがボーナスの始まりだと言われていて、お盆と年末と言う事から年2回になのではないかと言われています。

それが「会社」と言う組織が出来てから初めて出されたボーナスと言うのは、岩崎弥太郎が創立させた三菱商会でした。

当時の平社員で月給12円位だった様ですが、ボーナス金額は上の人で5円、下の人で1円と言う金額だったので、今で言う月給の2ヶ月分と言う様な高額の金額では無く、微々たる金額だったと言う事になります。

このボーナスと同じ頃、年末に1年を通してより成績が良かった社員に対して、年末賞与を与えると言う事もされていたそうです。当時は「ボーナス」と言う言葉では無かったそうで、「ボーナス」と呼ばれる様になったのは大正時代だったそうです。それまでは色んな名前で呼ばれていたみたいです。

その後、お給料やボーナスの渡し方も現金から銀行振り込みに変わって行きました。これは、「三億円事件」がきっかけではないかと言われています。

社員に対して年2回でも感謝の気持ちを込めて、賞与を渡すと言う行為は、様々な会社に波及していて、今現在のボーナスがあるのも岩崎弥太郎のお陰ではないかと言えそうです。

2009年12月6日日曜日

岩崎弥太郎が出世した理由

後藤象二郎の叔父である吉田東洋が手掛けていた私塾に、岩崎弥太郎も入塾していたといいます。ある一説によりますと、吉田東洋は甥である後藤象二郎に宿題を出したそうです。もちろん回答を書いて後藤象二郎は提出したのですが、その回答が余りにも見事だったそうで、不思議に思い後藤象二郎を問いただしたそうです。それで、岩崎弥太郎が代筆したのだと白状したといいます。この事をきっかけにして、吉田東洋は岩崎弥太郎に対して一目置いたのだと言う事です。

吉田東洋が手掛けていた小林塾では、身分など関係無く勉強したいと言う若者を受け入れていたそうで、ここで岩崎弥太郎が再び認められて世に出るきっかけになったのではないかと思います。

1858年に日米修好条約が調印され、安政の大獄が起こります。吉田東洋はこの時に土佐藩の政治に復帰する事になります。その時に土佐藩は藩財政危機の真っただ中にあり、その救済策として海外貿易を行って国内産業を盛んにしようと考え付きます。その調査をする為に調査団を作るのですが、その時に吉田東洋の推薦で岩崎弥太郎が入る事になりました。

その時に色々な仕事に従事する一方で、長崎にて海外事情もたくさん学んでいたと言われています。岩崎弥太郎は吉田東洋のお陰で、大いに出世した事が分かります。もちろん岩崎弥太郎も吉田東洋の事を尊敬していた事でしょう。

その後は、吉田東洋も暗殺され、藩費を浪費したとの責任問題も問われ、岩崎弥太郎自身も職を辞する事になりました。

2009年12月5日土曜日

岩崎弥太郎と渋沢栄一の戦い

渋沢栄一とは、日本の産業が発展する為、国民みんなが豊かになる為に尽力を注いだ人物です。関わった主な企業に、帝国ホテル、日本製紙、キリンビール、東洋紡績、東京海上保険会社等本当に有名な会社ばかり挙げられます。そんな渋沢栄一は「経営の神様」とまで言われていた人物です。

そんな渋沢栄一と岩崎弥太郎は生涯にわたって戦いを繰り広げたと言われています。

事の始まりは明治11年の8月、岩崎弥太郎が主宰した舟遊びに渋沢栄一が主賓として招かれた事に始まります。渋沢栄一が岩崎弥太郎の経営思想である三菱商事の社規を批判したそうです。

岩崎弥太郎は、起業家として有名で三菱商事も会社と言う組織体制を取っていました。しかし精神的な部分としては、組織体制を否定していたと言われています。対して渋沢栄一は、合本主義や経済道徳合一主義を取っていた事から、岩崎弥太郎の個人営利主義的な考えに同意する事が出来なかったそうです。

こう言ったやり取りが、舟遊び上で繰り広げられていたのですが、一応仲裁が入り万事休すと言った状態になったそうです。しかし岩崎弥太郎と渋沢栄一の間には深いヒビがこの時入ったと言います。

ここから戦いが始まるのですが、先ず仕掛けてきたのは岩崎弥太郎率いる三菱商会でした。渋沢栄一が率いる日本国郵便蒸気船会社を追い詰め、解散にまで追い込んだそうです。その後、三菱商会も大隈重信の失脚によって陰りが見え始めた所を、渋沢栄一が合本主義の下、共同運輸会社を創立して三菱を追い込んで行ったと言います。その為に三菱商会は窮地に立たされることになった事で一矢を報いたと言います。

最終的には、岩崎弥太郎が死去した後に、三菱と共同運輸が合同して日本郵船株式会社が設立されました。

2009年12月4日金曜日

東洋一の海上王「岩崎弥太郎」

岩崎弥太郎は、父である岩崎弥次郎、母である岩崎美和の長男として高知県井ノ口村で生まれました。

岩崎弥太郎は地下浪人の息子として産まれましたが、大きくなるにつれて秀才角を出してきた様で、その頃の土佐藩主であった山内豊照に対して書を講じる等して褒美を貰う程だったといいます。この時弥太郎は14歳と言う幼さだったと言います。

安政元年に、弥太郎は江戸へ遊学する事になりますが、その時の志もとても大きく、地元の星神社の扉に大きく志を書いてから江戸の安積艮斉に遊学として入門したと言います。
しかしその翌年、父の岩崎弥次郎がお酒を飲んでいる席で喧嘩をした為、投獄されてしまいます。その事をきっかけにして弥太郎が地元に帰り免罪を激しく訴えた為に、弥太郎自身も投獄される事になりました。

その後、地元の井ノ口村を追放された後、吉田東洋と言う人と出会い、それをきっかけにして飛躍の道を歩むことになりました。

その後、後藤象二郎と言う人の下で、仕事のパートナーとして働く様になった弥太郎は、商才を発揮する事になり、長崎で設立された土佐商会でもその活躍は見事だった様です。

その後、土佐商会はつくも商会と名前を変え、それを基にして1873年三菱商会を設立する事になります。この三菱商会では、それ以前に坂本龍馬から得ていた示唆に基づいて海運業に着目する事になります。そこでも才覚を発揮するかのように、諸外国の汽船会社達と戦いをして、それを制していったと言います。その事から「東洋の海上王」とまで呼ばれる様になったといいます。

2009年12月3日木曜日

土佐藩出身者で長崎で活躍をした岩崎弥太郎

岩崎弥太郎は今では誰もが知っている三菱グループの創始者ですが、あの三菱の菱形マークは、土佐藩山内家の門であった「三葉柏」と岩崎弥太郎家の家紋であった「三階菱」を組み合わせる事によって出来あがったマークです。岩崎弥太郎自身が考えたマークだと言われています。

土佐藩出身者で有名なのは坂本龍馬ですが、他にも先程ご紹介した三菱グループ創始者の岩崎弥太郎、大政奉還を現実のものとした後藤象二郎等がいます。この3人については皆土佐藩出身でありながら、長崎を中心に活躍した人物として今も語り継がれています。

坂本龍馬と岩崎弥太郎の出会いと言うのは、繋がりが後藤象二郎になるのですが、後藤象二郎の叔父に吉田東洋と言う人がいます。この吉田東洋が手掛けていた私塾で出会ったと言われています。この事をきっかけにして、途中色々あるとは言え、生涯親交が続いたそうです。

土佐藩出身の一人である後藤象二郎は、土佐藩主からの信頼も厚かったそうで、その為土佐藩の立て直しに奔走したそうです。そして「土佐商会」と言う会社を長崎と大阪に設け、後藤象二郎と岩崎弥太郎は土佐藩の資金調達の為に尽力を尽したと言われています。

その後、坂本龍馬率いる亀山社中との交流があり、岩崎弥太郎は海運業に着目する様になり、その後「三菱商会」を設立したと言われています。

この様に土佐藩出身で、長崎で活躍した人達は偉大なる功績を残していると言う事で、とても偉大なる人達だった事が伺えます。

2009年12月1日火曜日

岩崎弥太郎と坂本龍馬

坂本龍馬は岩崎弥太郎が生まれた翌年に生まれています。岩崎弥太郎が極貧な家に生まれたのに対し、坂本龍馬の家は高知城下での郷士・御用商人と言う立場であった為、裕福な家に生まれました。

坂本龍馬が26歳の時に脱藩をするのですが、その後に師と仰ぐ事になる勝海舟と出会います。そして日本を改革しようと、洗濯しようと意を決する事になります。そして、勝海舟から紹介された西郷隆盛から指示を得る形で「亀山社中」を長崎に結成、薩摩藩や長州藩の為に色々奔走をしながら、薩長同盟をお膳立てし、幕末のヒーローと言われる様な活躍をしました。

坂本龍馬が後藤象二郎と出会って意気投合をした事から、岩崎弥太郎との接点も出て来るようになるのですが、坂本龍馬は脱藩に関する赦免状を中岡慎太郎の分と一緒に取得して亀山社中を海援隊としました。一方岩崎弥太郎は長崎商会で働いていて、後藤象二郎を援護し、土佐藩を経済危機から救う為に金策に走っていたと言います。その方法は蒸気船を購入したり、武器弾薬を購入したりしていたそうです。また龍馬率いる海援隊においても会計士として活動を支えていました。

龍馬は自由奔放に政治改革を進めていく、弥太郎は経済官僚として奔走していく。二人の活動はかなり違いましたが、日本全体または世界と常に意識をして活動をしていたのは、共通していたと言えます。その為に岩崎弥太郎は坂本龍馬に憧れを抱いていた様です。

似ている様で似ていない2人は、龍馬の死後、その意思を岩崎弥太郎が受け継いでいく事になります。

2009年11月30日月曜日

大河ドラマ「龍馬伝」の岩崎弥太郎

2010年のNHK大河ドラマである「龍馬伝」は、福山雅治さんが演じる「坂本龍馬」が主人公になっていますが、この「坂本龍馬」の33年と言う短い生涯を、香川照之さん演じる「岩崎弥太郎」の視点から描いている作品になっています。

ドラマの内容ですが、岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者であり、幕末時代屈指の経済人でもありました。同郷には、あの坂本龍馬がいましたが、いつも自分の前を歩いている坂本龍馬に、岩崎弥太郎が憧れていたと言う事は有名です。

しかしある日、土佐藩参政において師事していた吉田東洋が暗殺されました。この事をきっかけにして、岩崎弥太郎は坂本龍馬の事を憎む様になったと言います。

その後、弥太郎と龍馬の二人は長崎の地で再会を果たす事になります。二人は衝突を何回も繰り返しながら一緒に海援隊を盛り上げていったそうです。しかし坂本龍馬は暗殺される事になり、坂本龍馬の志でもあった「世界の海援隊を作る」は岩崎弥太郎に引き継がれ、その後の発展を遂げていく。と言う物語になっています。

出演するキャストも豪華で、龍馬の師である「勝海舟」役を武田鉄也さん、龍馬の妻「お龍」役を真木よう子さん、龍馬の姉「坂本乙女」役を寺島しのぶさん等と言った、豪華な顔触れになっています。

幕末の風雲児と呼ばれた坂本龍馬の生涯を、三菱グループの創始者である岩崎弥太郎の視点で描くと言う、面白い視点の大河ドラマは、今までにない様な感じの大河ドラマになっています。

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2009年11月29日日曜日

岩崎弥太郎と三菱

土佐商会と言う会社があったのですが、明治維新が終わった後、名前を土佐商会から「つくも商会」に改名しました。明治4年に廃藩置県が行われましたが、この時に「つくも商会」の施設を譲り受けたのが岩崎弥太郎でした。

また施設を譲り受けたのをきっかけにして「三菱商会」と言う会社を創設する事になり、現在の三菱グループの原点になります。今ではお馴染みである三菱のマークは、この時定められたそうです。何故あのような三菱マークを商標にしたかと言うと、三蓋菱と言う岩崎家の紋と、三葉柏という岩崎弥太郎を認めてくれた土佐藩主山内家の紋を組み合わせたマークだと言われています。

岩崎弥太郎は元々「海援隊員」と言う事もあって、海運業にかなり力を入れていたと見られ、その功績から「東洋の海上王」とまで言われる様になったと言います。しかしその功績も空しく、52歳と言う若さで無くなる事になりました。

今の三菱グループがあるのは、岩崎弥太郎がいたからなのだと言う事が分かります。

そんな岩崎弥太郎ですが、高知県安芸駅から自転車に乗って20分程行った場所に、岩崎弥太郎の生家があります。当時はどういう所だったかは定かじゃありませんが、現在では一面田んぼと言うのどかな場所になっています。その生家は今でも残っていて、何ともいえず温かい雰囲気が出ている家になっています。車1台がなんとか通れるような道沿いに立てられていますが、その現代とはかけ離れている場所だからこそ、当時の雰囲気があふれているのかもしれません。そんな場所で育った岩崎弥太郎が三菱グループの創始者になるまでは、色々苦難も有った様です。

2009年11月28日土曜日

岩崎弥太郎の生い立ちは

岩崎弥太郎(1834から1885年)は現在の大企業、三菱グループの創始者で有名な人物です。三菱グループの創始者である事は知っていても、高知県安芸市出身で坂本龍馬と関係が有ったと言う事は意外にも知っている人はあまりいないのではないでしょうか。

その岩崎弥太郎の生誕の地である高知県安芸市には、生家が今でも大切に保存されていて一般公開もされているそうです。

その岩崎弥太郎ですが、1834年(天保5年)にその時は地下浪人であった岩崎弥次郎の長男として産まれました。弥太郎はその奇才ぶりを最大限に発揮していた様で、10数歳で漢詩を他人に献じたり、書を講じたりしていました。その秀才ぶりが第13代土佐藩主である山内豊照に認められたそうです。この時弥太郎はわずか14歳と言う幼さでした。

しかし、そんな秀才ぶりも何処へやら、幼い頃には畑などを荒らしたりして周囲を困らせるかなりの悪ガキであった様です。

そんな弥太郎がどう思いを巡らせていたのか、21歳の時に江戸に単身で遊学に行く事になりました。江戸で一生懸命勉学に励んでいた様ですが、1年経ったある日、自分の父親が投獄されている事、その理由が酒席での喧嘩が原因だったと言う事を知り、高知に帰り父親の免罪を訴えました。しかし逆にその事が原因で弥太郎自身も投獄されてしまい、村を追放されることになったのです。と言う様な波乱万丈な人生の幕開けが、岩崎弥太郎の生い立ちです。その後にも色々な業績を残す事になります。